フランスの歴史

フランスの歴史

古代のフランス(紀元前6世紀~紀元後4世紀)

ギリシア文明に続き、ローマおよびビザンティンの時代がフランスに大きな影響を及ぼしました。ギリシア人やローマ人による植民地化の時代にあたる紀元後4世紀末までのあいだに、文化や技術の流入と交流が数多くみられました。これが「ガリア・ローマ期」と呼ばれる時代です。

フランスの古代遺跡にはグラヌムGlanum、アンセリュンヌ Enserune、ラ・グローフサンク La Graufesenque、サンクセSanxay、モンカレMontcaretなどがあります。いずれも南フランスに位置し、とくに現在のラングドック地方を中心としたガリアの地に根を下ろしたギリシア・ローマ勢力の偉大さを物語っています。

公衆浴場、文化的建造物、住居などが見つかっているアンセリュンヌEnserune(エロー県)の遺跡では、主要部分を占める住居跡は紀元前6世紀に遡ります。オルビアOlbia (ヴァール県)の発掘遺跡では、紀元前4世紀にギリシア人によって作られた「ラ・フォルチュネla Fortunee」と呼ばれる商館の遺跡が残されています。アルピーユAlpilles山脈の麓という絶好のロケーションにあるサン・レミ・ド・プロヴァンス Saint-Remy-de-Provence (ブッシュ・デュ・ローヌ県)のグラヌム遺跡は、ギリシアとローマの2つの時代の痕跡を留めており、そこではギリシアの神々を引き継ぐ形でローマの神々が信仰されていたことがわかります。

プロヴァンスの太陽の下ではギリシアの神ゼウスとローマの神ネプチューンが渾然一体となっていますが、円形劇場と円柱が、ヴィラ(別荘)とモザイクが、失われた過去を現代に語り継いでいます。

王政復古と共和制(1815~1851年)

1815年、ナポレオンの影がまだあちらこちらに漂っていました。王政復古によって再び権力の座についたブルボン家の王朝はその影響に耐えることになります。当然のことながら、新たに復活した王政は、革命派の脅威におののきながら危機感を覚えていました。パリのチュイルリー宮palais des Tuileriesでは柵と壕が拡張されました。

1821年のセント・ヘレナ島でのナポレオンの死去が伝えられると、ナポレオン派が勢いづきます。1824年にルイ18世が死去すると、その弟のシャルル10世が王位に就きました。政党間の対立、矛盾する選挙、新聞に掲載される様々な意見―。民衆が意思を表明する一方で、軍はアルジェリアを征服します。

1830年7月、いわゆる「栄光の3日間」(7月革命)によって国王シャルル10世は亡命し、王党派の政治家、アドルフ・ティエールAdolphe Thiersの力で、国王の従兄弟にあたるルイ・フィリップが王位に就きました。フランスでは社会運動が盛んになります。民衆は不満を口にし、ブルジョワ階級が富を蓄え、知識人は意見を主張しようとしました。フランス革命に影響された革命的な動きは、ヨーロッパ全土に広がってゆきます。

1848年の「2月革命」では、作家のラマルティーヌが決定的な役割を果たすことになります。パリ、そしてフランスは内戦の危機にさらされました。労働者は過酷な状況に置かれ、失業問題の解決や労働時間の短縮、普通選挙などが求められていました。パリで民衆が蜂起しバリケードが築かれると、第二共和政の政府は暴力的にこれを鎮圧します。フランスを支配していた混乱と暴力は、人々を新しい希望へと向かわせることになりました。同年に行われた選挙で、ルイ・ナポレオン・ボナパルトを大統領に選出したのです。彼は1851年のクーデターを経て、1852年には皇帝に選ばれることになります。

 

 

第二帝政1852~1870年

1852~1870 年はナポレオン3世が統治した短い第二帝政の期間にあたります。ナポレオン1世の影響を受けた彼の甥、ナポレオン3世は軍人であり、スイスで育ちました。彼の妻ウジェニー・ド・モンティジョは帝国と宮廷に大きな影響力を持つことになります。パリのチュイルリー宮 Le palais des Tuileriesではこうして、忘れ去られていたあらゆる種類の絢爛豪華なパーティーが営まれるようになりました。庭園が息を吹き返します。第二帝政の宮廷で開かれる贅をつくした舞踏会には、著名な作家や芸術家たちが足しげく通いました。ウジェニーはチャリティーバザーを開催し、芸術や文学を保護しました。第二共和政で大統領を務めた皇帝は、普通選挙と労働者と聖職者を擁護しました。パリやパリのブーローニュとヴァンセンヌVincennesの森はセーヌ県知事オスマンHaussmannの都市計画によって大きくその姿を変え、フェルディナン・ド・レセップスFerdinand de Lessepsによってスエズ運河が開通しました。 ナポレオン3世を公然と非難したヴィクトル・ユーゴーは、彼を『小ナポレオン』とあだ名します。ナポレオン3世はクリミア戦争、イタリア戦争を行いながらもフランスの経済発展を推進します。しかし、1870年、普仏戦争のセダンの戦いに敗れて捕虜となり、困難なその統治に幕を下ろしました。とはいえ、この時代には、アンリ4世が提唱した歴史の古いプロジェクトに従い、ルーヴル宮の建物の全体が完成しています。1871年のパリ・コミューンの際の騒乱によって炎上したチュイルリー宮palais des Tuileriesとパリ市庁舎Hotel de Ville de Parisは、その象徴的な焼け跡を、その後10年にわたりさらし続けることになります。

パリ・コミューンおよび第三共和制1870~1914

年普仏戦争中の1870年、プロイセン軍はパリのすぐ近くにまで迫っていました。コミューン政府による民衆蜂起はバリケード上で終焉を迎えます。コミューンは、共和政派となったティエールの命令を受け、流血のもとに鎮圧されたのでした。 フランスは1873年にようやくプロイセンの占領から解放され、第三共和政が樹立します。ティエールA. Thiers、マクマオンMac-Mahon、グレヴィーJ.Grevyが歴代の大統領を務めました。首相ガンベッタL. Gambetta、フェリーJ. Ferryのもとで、左翼的な思想は共和主義的なブルジョワジーの理念への扉を開き、反聖職者主義的政策、無償初等義務教育、離婚の合法化が政府の決定する社会的措置の最初のものとなりました。 フランスは植民地拡大のため、チュニジア、エジプト、ヴェトナム北部のトンキンに侵攻しました。そんな中、政治的内部抗争がブーランジェBoulanger将軍とサディ・カルノーSadi Carnot大統領を中心に激化しました。パナマ運河やロシア借款や有名な「我弾劾す!」でエミール・ゾラが論陣を張ったドレフュス事件(1895年)をめぐるスキャンダル、およびワルデック・ルソーWaldeck-Rousseau内閣下における左派ブロックの動きは、1887年から1906年にかけてのこの混乱期をよく表しています。政府は揺らぎ、教会の財産は国有化されました。左翼の『ユマニテ』Humaniteといった新聞が民衆に情報を与え、ストライキや社会運動が全国に広がります。1900年の万国博覧会はフランス植民地帝国の新しい力を反映したものでしたが、首相クレマンソーG. Clemenceauの強硬姿勢にもかかわらず、ドイツの脅威は日増しに大きくなりました。ファリエールFalliere大統領(1906~1913年)のあとをレイモン・ポワンカレRaimond Poincareが引き継ぎます。帝国主義戦争に反対した平和主義者のジャン・ジョレスJean Jauresは暗殺されました。1914年、第一次世界大戦が勃発します。 

第一次世界大戦1914~1918年

バルカン戦争の終結からまだ日の浅い1914年から1918年にかけて、世界を二分する大戦が行われました。その発端となったのが1914年にサラエボで起きたオーストリア皇太子の暗殺事件です。いったん回りだした戦争の歯車は、容赦なく周辺の国々を巻き込んでゆきました。第一次世界大戦では、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、ついで参戦したトルコ、ブルガリア、セルビアの陣営と、フランス、ロシア、ベルギー、イギリスおよび他の連合国(日本、イタリア、ルーマニア、ポルトガル、アメリカ、ギリシア、中国、南米のいくつかの国々)とが対立します。 フランスにとっては、フランダース地方での戦闘によって1914年は血塗られた年となり、1915年にはシャンパーニュ地方とアルトワ地方での戦闘でフランス軍の歩兵隊に大きな犠牲が出ました。「ヴェルダン」の戦いがあった1916年は「塹壕戦」の年で、ムーズ県のドゥオーモンDouaumontにある納骨堂がそのすさまじさを今に伝えています。そして混乱の1917年を経て、フランス軍はマルヌ県のシュマン・デ・ダムChemin des Damesやシャンパーニュ地方、フランダース地方、ギリシアで勝利を収めます。1918年11月11日の休戦協定で、18~27歳のフランス人の27%以上が死んだこの恐ろしい戦争に終止符が打たれました。カンCaenやペロンヌPeronneにある記念碑がその記憶を想起させます。 第一次世界大戦ではクレマンソーClemencea、フォッシュFoch、ペタンPetainといった人々が活躍しました。重砲、毒ガス、戦車、戦闘機、機関銃、潜水艦、車両の使用は産業技術の進化を表しています。文化や社会をも変えることを通じ、この戦争は、マルヌの戦いや兵士の墓やペロンヌにあるような記念碑に象徴される、文明史の一大転換点となるのです。

両大戦の間 1919~1939年

第一次世界大戦後、フランスの下院は、大戦時のフランス軍の軍服の色「ホライゾンブルー」で染め上げられました。代議士の大半が旧軍人で占められたのです。デシャネル P.Deschanel、ポワンカレ R.Poincare、ブリアン A.Briand、ドメルグ G.Doumergue、エリオ E.Herriot、パンルヴェ P. Painleve、ラヴァル P. Laval、ドゥメール P. Doumer、ルブラン A. Lebrun、ダラディエ E.Daladier、ブルム L. Blum、サラングロ R. Salengroといった人々が、二つの大戦に挟まれた20年間に活躍した政治家たちです。フランス各地の町や村の通りの名称に彼らの名前がしばしば用いられています。

戦費の償還は財政問題や社会問題、ストライキを引き起こしましたが、長年の過酷な戦争のあとの人々の歓喜は大きいものでした。女性は自らを解放します。スカートの丈は短くなり、髪は「少年風」にカットされました。男性の立派な顎鬚は剃り落とされ、フランスにおいてもアメリカの影響がダンスや音楽にみられるようになりました。芸術運動、建築制作が盛んになりますが、やがて、台頭するナチスに弾圧されることになります。
1926年には経済危機が強まり、1929年に有名な「大恐慌」が発生しますが、フランスはスポーツと航空産業で卓越した存在となります。1930年には、北部および東部国境に、ドイツに対する一大防衛要塞線「マジノ線」が構築されましたが、あまり役には立ちませんでした。と言うのも、ドイツ軍はベルギーを経由してフランス国内になだれ込んだからです。1936年には有給休暇制が導入され、余暇を大切にする現代への第一歩となりました。

ヒトラーは1938年にオーストリアに、1939年にはチェコスロヴァキアとポーランドに侵攻します。こうして第二次世界大戦が始まりました。

 

第二次世界大戦 1939~1945年

第二次世界大戦(1939~1945年)では連合国(フランス、ポーランド、イギリス、英連邦、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ユーゴスラヴィア、ギリシア、ソビエト連邦、アメリカ、中国、ラテンアメリカのいくつかの国々)と、全体主義国家から成る枢軸国(ドイツ、イタリア、日本、ハンガリー、スロヴァキアなど)が戦いました。
 
戦争はドイツのアドルフ・ヒトラーが権力を掌握したのちに起こります。ナチスの思想や反ユダヤ主義に反対した多くの知識人や芸術家がドイツや東欧諸国を離れました。ヒトラーは強力な軍隊「ヴェーアマハト(国防軍)Wehrmacht」を持っていました。1936年にはライン川左岸を、また1938~39年にかけてはオーストリアとチェコスロヴァキアを占領しました。ヨーロッパ各地で電撃戦を行った結果、ドイツはポーランド、ベルギー、フランス、デンマーク、ノルウェーを次々と侵略していきます(1939~42年)。1940年6月22日、フランスのペタン元帥はドイツと休戦協定を結び、ヴィシーに政府を置きましたが、6月18日にド・ゴール将軍はロンドンからフランス国民にレジスタンスを呼びかけています。

総統ヒトラーは、1942年から43年にかけて東部および地中海諸国に兵を進めました。ついに1944年6月6日、連合軍がノルマンディーに上陸します。カンCaenにある記念碑と多くの兵士の墓がこの劇的な作戦を今に伝えています。

ド・ゴール将軍がアルジェで組織した臨時政府がパリに移され、ルクレルク師団がアルザス地方に進軍します。1945年のヤルタ会議でルーズヴェルトとチャーチルとスターリンが手を組みます。ドイツは包囲され、1945年5月8日に降伏しました。1945年8月にはアメリカが原子力爆弾を広島と長崎に投下し、言語を絶する強制収容所の恐怖に代表されるこの第二次世界大戦に、唐突な形で終止符を打ちました。

 

第四共和制1944~1958年1944年

ドイツ軍の占領地域の解放後数ヶ月の間はパリ、そしてフランス全土は歓喜の渦に包まれ、ド・ゴール将軍は英雄になりました。 行き過ぎた「粛清」は暴力的な行為となって現れました。ドイツ人と親密だった女性は告発され、髪を刈られました。作家ジャン・ポール・サルトルは、「自らの存在に対して全責任を負う」人間を主張しながら、「実存主義」を唱えました。サン・ジェルマン・デ・プレの地下酒場で、ジャズのリズムに身を任せることが流行しました。戦争中の不自由な日々に報いる形で、余暇において現代小説、映画、スポーツが楽しまれます。復興のための大掛かりな努力がフランス全土で繰り広げられました。 ヴェトナム戦争、次いで朝鮮戦争が世論を賑わせます。企業の国営化が全国で進められました。共産主義体制が東欧諸国で打ち立てられ、米ソの「冷戦」が始まりました。フランスでは社会主義者が権力の座につき、オリオル V. Auriol、ラマディエ P.Ramadier、シューマン R. Schuman、ビドー G. Bidault、プレヴァン Pleven、クーユ H. Queuille、フォール E. Faure、ピネ A. Pinayらが活躍しました。1953年にはオリオルの後を次いでコティ R. Cotyが大統領に就任しました。 1954年にはディエン・ビエン・フーの戦い、マンデス・フランス P. Mendes-Franceの首相就任、ベン・ベラによるアルジェでの「FLN(民族解放戦線)」の結成といった出来事がありました。,が始まったのです。その後スエズ動乱を経て、1958年12月にド・ゴール将軍が第五共和政の大統領に任命されました。 

第五共和制1958年~現代

第五共和政は、1958年に大統領に選出されたド・ゴール将軍が提案した新憲法とともに華々しいスタートを切りました。ピネ A. Pinayによって新フランが導入されました。首相にドブレ M. Debreが就任しました。ブラックアフリカの植民地は独立の道を選択しました。 1961年、アルジェで将校たちが軍事クーデターを企てますが失敗に終わります。アルジェリア戦争は激化しました。エヴィアン協定ののちにFLN(民族解放戦線)がアルジェリアを代表することになります。その後、ド・ゴールの関心は、「統一ヨーロッパと単一通貨」という壮大なプロジェクトに移りました。 1965年、共和国大統領の再選を果たしますが、1968年の「5月革命」の一連の出来事がパリ大学ナンテール校から始まります。無秩序、ストライキ、ド・ゴールが称するところの「シァンリchienlit(ドンチャン騒ぎ)」は、この68年の出来事を特徴づけるものでした。ドブレ M.Debre、マルロー A. Malraux、シャバン・デルマス J.Chaban-Delmas、ジスカール・デスタン V. Giscard d'Estaing、フォール E. Faure、ポンピドゥー G. Pompidouらが政界で名を成しました。1969年にド・ゴールが大統領を辞職すると、ポンピドゥーが後任に就きました。次いで1974年にはジスカール・デスタン、1981年にはフランソワ・ミッテラン Francois Mitterand、そして1995年からはシラク J. Chiracが大統領に就任しています。 社会面では、フェミニズム運動が進展し、中絶を容認する法律が制定されたほか、死刑制度が廃止されました(1981年)。しかしその一方で、1973年より失業率が増大しました。ヨーロッパ統合は、実質的にはベルリンの壁の崩壊(1989年)と東西ドイツの統一、そしてEU統合を目指したマーストリヒト条約の批准(1992年)とともに本格化しました。また、経済成長を受けて、消費社会が強固なものになりました。 現代芸術も発展しています。現代建築として、ニュータウン建設や、ペイ I.M. Peiによる「 ルーヴルのガラスのピラミッド de I.M. Pei au Louvre」(1989年)のような大規模な記念建造物にその表現の場を見出しています。 2002年1月1日には単一通貨「ユーロ」が導入され、この三千年紀の初めを画する出来事となりました。