フランス芸術の歴史

フランス芸術の歴史

旧石器時代

ヨーロッパにおける先史時代の芸術は、洞窟の壁面に描かれた彫刻画あるいは絵画を特徴としています。先史時代の人類は、洞窟や洞穴の壁に自己表現の場を見出したのでしょうか。

 先史時代の主要部分を占める旧石器時代(紀元前30 000~10 000年)。この時代の芸術は、西ヨーロッパを覆っていた広大なステップの存在を想起させます。人々はフリントや木、骨、動物の角、マンモスの牙などを使い、狩猟移動生活に必要な道具を作っていました。ドルドーニュDordogne 県の洞窟では、ネアンデルタール人(紀元前30 000~27 000年)による簡単な彫刻画が見つかっています。それに続く時代(紀元前17 000~13 000年)の動物を描いた貴重な壁画や「オーリニャック期(後期旧石器時代の代表的な文化相)のビーナス」と呼ばれる小さな女性像もドルドーニュ県で発見されています。

 その後、ラスコーLascaux およびヴェゼール渓谷Vallee de la Vezereの洞窟内で、アルタミラAltamira(スペイン)で発見されたバイソン(野牛)に匹敵する、まさに傑作と呼べる壁画が発見されました。

さらに時代が下ったマドレーヌ期(後期旧石器時代最後の文化相で、紀元前11 000年頃)の人々は、横からみた動物たちの姿を図案化し、壁面の凹凸を利用することで生き生きとした躍動感を与えました。ドルドーニュ県レ・ゼジー・ド・タヤックLes Eyzies-de-Tayac にあるレ・コンバレルLes Combarelles やフォン・ド・ゴームFont-de-Gaumeの史跡には、新石器時代まで続くこの完成された芸術がはっきりと示されています。

1994年に見つかったアルデッシュArdeche 県のショーヴェ・ポン・ダルクChauvet-Pont-d'Arc洞窟に代表される近年の発見からは、美しさを存分に湛えた洞窟壁画の存在が明らかになりました。残念ながら「先史時代のシスティナ礼拝堂」とたとえられるこの壁画では保存が最優先課題となっており、ほかの多くの洞窟壁画と同様、実物の見学ができないのですが、展示物やビデオによってその様子が紹介されています。ヨーロッパにおける先史時代の芸術は、洞窟の壁面に描かれた彫刻画あるいは絵画を特徴としています。先史時代の人類は、洞窟や洞穴の壁に自己表現の場を見出したのでしょうか。


新石器時代とケルトの芸術

新石器時代と青銅器時代(紀元前4000~750年)に入ると定住が進み、牧畜や穀物の栽培が営まれました。

人々は動物や人間の姿を図案化しています。「図解的」と形容されるこの芸術は、フランスやスペインの洞窟で熱心に描かれ、特に、コルシカ島フィリトーサFilitosaのメンヒル像や、アルプ・マリティーム県メルヴェイユMerveilles渓谷にあるアルプスの岩壁に描かれた彫刻画がその代表的なものです。手法やフォルムは、装飾土器や金属加工の発展とともに変化を遂げてゆきました。そして、岩板を用いた最初の巨石記念物やカルナックCarnacの列石群がブルターニュ地方に出現します。その後、モルタルを使わずに石を積む「空積み」の手法を用いて、アーチ型天井を持つ小屋が作られ、「キャピテルcapitelles」「カドルcadoles」「トリュリtrulli」と呼ばれるようになります。

鉄器時代(紀元前750年から紀元後まで)には、イル・ド・フランス地方オヴェールAuversで発見された「黄金のディスク」に代表されるような、豪華な貴重品が作られるようになりました。このような変化はケルト芸術においても継承され、硬貨や形象芸術、様々な建築物が誕生しています。

ガリア人は、侵略者から身を守るため、地中海地域の建造物に着想を得た大規模な囲い壁、つまり壁厚4~5mの本格的な城壁を築きました。「インペラトル」の称号を授けられたローマの武将ユリウス・カエサルJules Cesarはその『ガリア戦記』の中で、ローマによる制圧初期のガリアの城壁の様子を描写しています。そしてこのときから、ガリア・ローマの芸術がフランスの地に根をおろすことになりました。

古代文化の影響 

ローマによるガリア制圧以後、ローマ様式の影響がフランスの古代遺産に色濃く刻まれることになります。そしてこのローマ様式とは、それ自体がギリシア芸術やビザンティン芸術の影響を受けたものでした。紀元前6世紀~紀元前1世紀にかけて花開いたギリシア芸術は、フランス南部において、グラヌムやオルビアの遺跡、あるいはアンセリュンヌの遺跡として残っています。人々は何世紀にもわたって、これらの大建造物を今なお美しく飾っているペディメント(建造物の屋根の妻側にある三角形の部分)やピラスター(付柱)に、この秩序正しいギリシア建築のディテールを認めてきました。ガリア地域の住民たちが担ったガリア・ローマの芸術とは、ローマによる討伐開始からフランク族の定住に至る期間、つまり南仏における紀元前121年から紀元後476年までの芸術を指しています。ガリアに影響を及ぼした古代ローマの様式や建築は、例えば、3層のアーチから成る壮大な水道橋「ポン・デュ・ガールpont du Gard」(ガール県)や、アンセリュンヌ Enserune(エロー県)、グラヌムGlanum(ブッシュ・デュ・ローヌ県)、オルビアOlbia(ヴァール県)の発掘現場で見出すことができます。サンクセ Sanxay(ヴィエンヌ県)にあるガリア・ローマ期の遺跡では、神殿、円形劇場、共同浴場といった大規模建造物の跡がみられます。 モンモーランにあるガリア・ローマ期のヴィラ(大規模農園) villa gallo-romaine de Montmaurin (オート・ガロンヌ県)は、紀元後1世紀の居住様式を今に伝えています。 ラ・グローフサンク La Graufesenque (アヴェロン県)は、赤色の陶製食器類の一大生産地で、それらはローマ帝国の西部全域に輸出されていました。ニーム Nimes(ガール県)は典型的なローマの都市で、円形闘技場Arenes、メゾン・カレ Maison carree、マーニュ塔 Tour Magneが残っています。4世紀にはビザンティン芸術が東ローマ帝国からもたらされ、その丸天井やフレスコ壁画を通じ、おもにロマネスク様式の宗教芸術に対して影響を及ぼしています。

ロマネスク芸術6世紀~12世紀

6世紀以降、キリスト教の影響が増すにつれ、建築は「ロマネスク様式」が主流となっていきます。「ロマネスク(ローマ風)」という名称は、古代ローマの建築様式から様々な部分を借用していたためにつけられたものです。西ヨーロッパにおけるこの宗教芸術の威光に、ロワール川やライン川流域も従ってゆきます。そしてこの宗教芸術を見事に表現しているのが、ブルゴーニュ地方のクリュニー大修道院 Abbaye de Cluny です。  サンチアゴ・デ・コンポステーラへと向かう数多くの巡礼路は、サントル・ヴァル・ド・ロワール地方やオーヴェルニュ地方、ポワトゥー・シャラント地方を始めとするフランス各地の街道筋に、無数のロマネスク教会の建立を促すことになりました。  トゥールTours、ポワティエPoitiers、クレルモン・フェランClermont-Ferrand、オルレアンOrleans、ジュミエージュJumieges、シャルトルChartres、トゥールーズToulouse、コンクConques、トゥルニュTournus、ヴェズレーVezelayで、芸術家と職人がその才能を競い合いながら、トンネルヴォールトを特徴とするロマネスク教会を建設しています。  ディジョンDijon、シャルーCharroux、サン・サヴァン・シュル・ガルタンプ Saint-Savin-sur-Gartempe、ヌヴィ・サン・セピュルクルNeuvy-Saint-Sepulcreなどで見られる、内陣を取り囲むようにして配された祭室やロトンダ(丸屋根を持つ円形の建物)に面した「周歩廊」のコンセプトは、エルサレムの聖墳墓教会から着想を得たものです。  ラングドック・ルシヨン地方のサン・ミッシェル・ド・キュクサSaint-Michel-de-Cuxaやカタロニア地方リポールRipollの教会では、後陣の丸みが見事な芸術作品で装飾されています。クロイスター(方形の中庭を囲む列柱廊)が美を競い合い、円柱の柱頭が旧約聖書のエピソードを想起させます。  オータンAutun(ソーヌ・エ・ロワール県)やオロロン・サント・マリーOloron Sainte-Marie(ピレネー・アトランティック県)、モワサックMoissac(タルン・エ・ガロンヌ県)の教会の壮麗な彫刻タンパン(扉上部の半円壁)を前にして、その美しさに人はしばし言葉を失ってしまうでしょう。そこに描かれた痩躯のキリストと弟子たちは、永遠のまなざしを見る人に投げかけています。ロマネスクの彫刻やフレスコ画、金銀細工、装飾写本は、キリストの生涯とその教えに触発された、大衆的で直観的な篤い信仰心を表すものです。このようにして、教会のポーチは、まさに「描かれた聖書」と形容されることになるのです。

ゴシック芸術 13世紀~15世紀

交差リブと尖塔アーチを特徴とするゴシック建築。それは、それぞれの部位の空間的なボリュームを組み合わせ、その膨らみをさらに押し広げようとする意思をはっきりと示しています。高くそびえる後陣、数多い開口部、ステンドグラスを通した光が、尖塔アーチ、交差ヴォールト、飛梁の助けを借りて、空間のボリューム感を強化しています。ボーヴェBeauvaisの大聖堂の内陣は48mの高さを誇っています。シャルトルChartresの大聖堂は、そのステンドグラスと彫刻で見る人を圧倒します。聖遺物箱は七宝細工と貴金属で覆われ、祭壇画や彫像が峻厳さを湛えています。 フランス中・北部地方においては、壮麗な塔を持つパリ・ノートルダム大聖堂Notre-Dame de Parisのほかに、ノワイヨンNoyon(オワーズ県)、サンスSens(ヨンヌ県)、ラオンLaon(エーヌ県)、ランスReims(マルヌ県)、アミアンAmiens(ソンム県)、マントMantes(イヴリーヌ県)、シャルトルChartres(ユール・エ・ロワール県)、ボーヴェBeauvais(オワーズ県)、ブールジュBourges(シェール県)、サン・ドニSaint-Denis(セーヌ・サン・ドニ県)の大聖堂が、13世紀以降に建設されたものの中で最も美しいものとして数えられています。そしてその建設の現場に満ちていたものとは、信仰と大聖堂の建設に携わった人々の奇跡ともいえる、天に向かって飛翔する宗教的高揚感でした。 後期ゴシックは、15世紀に、波打つ装飾を特徴とする「フランボワイヤン様式」(火炎式)となります。また、ゴシック様式は、19世紀末に建築家ヴィオレ・ル・デュックViollet-le-Ducに感化された「ネオ・ゴシック」として再び流行します。イル・ド・フランス地方から生まれたゴシック芸術は、13世紀中葉以降、キリスト教西ヨーロッパにおける宗教的創造物にあまねく見られる様式となりました。

ルネッサンス芸術 15~17世紀

15世紀から16世紀にかけて、知の再生「ルネサンス」の芸術運動は、まぎれもなくイタリアからフランスにもたらされました。中世を経て、芸術運動の高まりは、古代ギリシア・ローマにその主題を見出します。より人間中心であろうとしたルネサンスは、特にロワール川のほとりに建築された城や詩、調度品、絵画、フレスコ画において表現されました。

偉大なフランス王たちの庇護とブルジョワジーによる商業の発展は、イタリアとのあいだで芸術家の交流を盛んにしました。フィレンツェ、ヴェネチア、ミラノといった都市が芸術家の才能の開花に寄与します。彫刻家のピサーノPisano親子、ローマの「トレチェンド(1300年代)」の画家たちや、チマブーエCimabueやジオットGiottoの作品は、イタリアの「クアットロチェント(1400年代)」の芸術家たちの道を拓くものでした(ドナテッロDonatello、マザッチョMasaccio、ブルネレスキBrunelleschi、デッラ・ロッビアdella Robbia、デッラ・フランチェスカdella Francesca、ボッティチェリBoticelli、ピサネッロPisanello、マンテーニャMantegna、ベッリーニBellini、ジョルジョーネGiorgioneなど)。

芸術を庇護したイタリアの名家には、フィレンツェのメディチMedicis家、ミラノのスフォルザSforza家などがありました。ブラマンテBramante、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエルはこのようにして、ルネサンスをその黄金期へと導いていったのです。フランドル派のファン・デル・ウェイデンVan der WeydenやボッシュH.Bosch、ドイツのA. デューラーDurer、L. クラナハCranach、M. グリューネヴァルトGrunewaldの影響も感じ取ることができます。

フランスがこの新しい芸術に対して門戸を開くきっかけとなったのは、シャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世が行った「イタリア戦争」でした。貴族や歴代の王は、ロワール渓谷のブロワBloisやシャンボールChambord(1519年)に初期の巨匠たちを呼び寄せます。1516年よりレオナルド・ダ・ヴィンチは、フランスのアンボワーズAmboise近郊で晩年の日々を送るようになりました。そしてこの地に『モナリザ』を含む幾枚もの絵画を遺しましたが、これがフランス王室のコレクションにイタリア人の作品が加わる端緒を開くことになったのです。

マニエリスム1530~1630年1530-1630年

末期ルネサンスは、運動最後の100年にあたる1530~1630年にかけて、「マニエリスム」という名で呼ばれることになります。ヨーロッパ全域がルネサンスの流行に遅れまいとし、イタリア人を中心とする偉大な芸術家たちの「マニエール(手法)」に倣おうとしたのです。 フランスでは、フランソワ1世に招かれたロッソRosoやプリマツィオPrimaticeを中心に、1530年にはフォンテーヌブローFontainebleau派(セーヌ・エ・マルヌ県にあるフォンテーヌブロー城の建設に携わった芸術家たちのグループ)が形成されます。絵画においては、神話を題材にしたシーンや装飾的な裸体が登場しました(フォンテーヌブロー城にある「フランソワ1世の回廊」)。マルケトリ(寄木細工の技法)やスタッコ細工、フレスコ画が、巧緻で幻想的な装飾的世界の中で、魅力と美を競い合いました。1540年から1544年にかけては、彫刻や金銀細工を手がけたベンヴェヌート・チェッリーニBenvenuto Celliniがフランスに滞在しました。また、1552年には、フォンテーヌブロー城の「舞踏の間」をニッコロ・デラベ-テNiccolo dell’Abateが手がけています。 その後、タピスリーの下絵で有名なクーザンJ. Cousin(ルーヴル所蔵の「エヴァ・プリマ・パンドラ」、ラングルLangres寺院のステンドグラス)、彫刻家グージョンJ. Goujon(パリの「フォンテーヌ・デ・イノサン(無垢なる人々の泉)fontaine des Innocents」)、画家のカロンA. Caronのほか、建築家のレスコP. Lescot (ルーヴルの方形宮Cour carree)やドゥロルムPh. Delorme(アネ城Chateau d'Anet)、ビュランJ. Bullant(エクアンEcouen城の礼拝堂)、アンドゥルエ・デュ・セルソーJ. Androuet du Cerceauらがマニエリスムの精神を体現し、壁面の凝った幾何学模様を、ペディメントや階段、円柱の周囲に秩序正しく配しました。 ヨーロッパ全体でみると、16世紀マニエリスムは、スペインではエル・グレコEl Greco、プラハではスプランヘルB. Sprangerやフォン・アーヘンH. Von Aachen、ドイツ地域ではクラナハL. CranachおよびホルバインH. Holbein、そしてオランダではブリューゲルP. Bruegelといった画家たちの輝かしい作品を生み出しています。

バロック芸術 1650~1750年

しなやかでダイナミック。バロック芸術(1650~1750年)はこんな言葉で特徴づけられるのではないでしょうか。バロックは、16世紀末のルネサンス・マニエリスムと18世紀末の後期バロック、いわゆる「ロココ」とのあいだにあたる、おもに17世紀に流行しました。 盛期バロックは歴史情勢の変化とイタリアからの影響を受け、「理想の都市」を作ろうとする都市計画の中で具現化されています。ルイ14世は、ヴェルサイユ宮殿chateau de Versaillesを何本かの基軸とテラスを中心に編成された庭の中心に据えるべく、1665年には整備に乗り出しています。

ローマにおいては、ベルニーニBerniniがローマの聖ピエトロ大聖堂にある教皇座のアーチ型天蓋の制作を開始し(1624年)、ピエール・ド・コルトンヌPierre de Cortonneがサン・マリー・ド・ラ・ペ広場Place Sainte-Marie-de-la-Paixを改修しました(1656年)。特にトスカーナ地方を中心に、贅沢な個人のイタリア式ヴィラ(別荘)が数え切れないほど建てられました。火災で焼失したロンドンの街は碁盤の目状に再建されます(1666年)。パリでは、アルドアン・マンサールJ. Hardouin-Mansart がヴィクトワール広場Place des Victoires やヴァンドーム広場 Place des Vendome を建設しました(1685年)。リュクサンブールLuxembourg宮殿は、フィレンツェのピッティi宮殿から着想を得たものです。 バロックの宗教建築は、パリのサン・ポール教会Eglise Saint-Paul(1641年)やヴァル・ド・グラース教会Eglise du Val-de-Grace(1645年)のファサードに見出すことができます。バロックの祭壇画はドイツやスペインで数多く制作されました。代表的な画家としては、イタリアのカラッチA. Carrache、カラヴァッジオCaravaggio、フランスのプッサンN.Poussin、ロランC.Lorrain、オランダのルーベンスP. Rubens、ヨルダーンスJ. Jordaens、スペインのスルバランF.de Zurbaran、ヴェラスケスD.Velasquezなどが挙げられます。

 

 

後期バロック (ロココ)

「ロココ」こと後期バロックは盛期バロックに続いて18世紀に興りました。17世紀末にはすでにドイツ、オーストリア、ボヘミア地方で現れています。官能美に対する嗜好によって、17世紀バロックの秩序を重んじる特徴に、より自由な構成がもたらされています。装飾が多用され、より豊かで幻想的なものになりました。「だまし絵」のフラスコ画、階段やニンフェ(泉の上に立てられた建造物)、寓意的な彫刻によって、教会や城や泉が過度に装飾を施されました。ウィーン、ロンドン、ドレスデン、トリノ、南ドイツ、ボヘミアで、この芸術様式のありとあらゆる大胆な趣向が採用されました。サルヴィSalviが手がけたローマのトレビの泉(1732~1762年)やナポリ近郊のカセルタ王宮の庭園内にあるヴァンヴィテッリVanvitelli作「水の階段」(1751~1758年)など、後期バロックの豊穣な「奇想曲」の周りには、目を歓ばせる要素が必ず存在しています。

建築物で飾られた広場がパリ(コンコルド広場Place de la Concorde)、ボルドー(ブルス広場Place de la Bourse)、ナンシー(スタニスラス広場Place Stanislas)に建設されました。オーストリアでは、フィッシャー・フォン・エルラッハFischer von Erlachとルーカス・フォン・ヒルデブラントLucas von Hildebrandtが幻想建築を競い合いました。バイエルン地方では農村の修道院が小天使像で覆われました。ミュンヘンではアダムAdam兄弟が有名です。ボヘミア、モルダヴィア、南ドイツのロココ芸術は巡礼教会を装飾し、例えばヴィーズWies教会(ドイツ)では、白地に施したきらめく金箔装飾の効果で、教会の壁自体が揺らめいているような錯覚を起させるほどです。

スペインとポルトガルが植民地としていたラテンアメリカは、イベリア半島のプラテレスク様式に影響を及ぼしました。フランスにおいては、ヴェルサイユ宮殿の建設を担当したマンサールMansartの弟子たちが個人の邸宅やその内装を手がけるようになり、その好例をフォーブール・サン・ジェルマンFaubourg Saint-Germain界隈やマレMarais地区、さらには美しいランブイエRambouilletの森に見ることができます。

新古典主義 1774-1815年

1760年から1820年にかけて、「新古典主義」という芸術の潮流が生まれ、古代ギリシア・ローマの芸術を援用する特異な一時期を形成しました。ヨーロッパでは、古代芸術とギリシアのドラマツルギーを志向する同一の様式から、様々な作品がいっせいに生み出されました。

ペローPerraultが手がけたルーヴルLouvre宮のコロネード(列柱)はこの建築ジャンルのモデルとなり、ヴェネチア人パッラーディオPalladioによるペリスタイル(柱廊)付きのヴィラ(別荘)は、イギリスのコロナード様式のヴィラを生み出すきっかけにもなりました。 フランス人画家のロベールH. Robert、ダヴィッドL. David、グロA.J.Gros、プリュードンP.P. Prud'honや、さらには幻想絵画といったものまで描いたスイスのフュースリーJ.H. FussliやスペインのゴヤF. Goyaによって、戦争や風俗のシーンが描かれるようになりました。 

フランスにおける新古典主義は、1774年、建築家ルドゥーN. Ledouxが、ギリシア神殿の円柱としてもっともシンプルな形式であるドーリア式円柱を採用した時から、華々しい時代を迎えたのでした。そのほかにも、スフロG. Soufflotが設計したパリのパンテオンPantheon(1764年)、ミックR.MiqueによるヴェルサイユVersaillesのプティ・トリアノンPetit Trianon(1783年)、ルイV. Louisのボルドー大劇場(1773年)、テヴナンTheveninによるランブイエRambouilletのマリー・アントワネットのあずま屋(1785年)やフォンテーヌブローFontainebleauにある彼女のアパルトマンがあります。

また、オデオンOdeonやパレ・ロワイヤルPalais-Royalで、古典劇は熱狂的な反響を呼びました。ルドゥーによるアルケ・スナンArc-et-Senansの王立製塩所La Saline royale(1774年)、ペルシエPercierとフォンテーヌFontaineによるルーヴル宮Louvreのカルーゼル凱旋門Arc du Carrousel(1806年)もこの時代の最も美しい建築物の一つとして数えられています。

ロマン主義1815~1848年

ロマン主義は北方地域を中心としたヨーロッパの芸術運動です。そこにおいては、新古典主義とは裏腹に、自然や英雄的精神、情緒といった概念が次々と想起されました。特には1815~1848年に興隆を極め、おもにイギリス、ドイツ、フランスで発展しました。音楽家としてはシューベルト、シューマン、ベートーヴェンが挙げられます。  ロマン主義絵画に着想を与えたものには、戦争のほかに文学者の存在がありました。ダンテDante、さらにはゲーテGoetheやバイロンByron、ウォルター・スコットWalter Scott、そして少し時代が下ってからはシラーSchiller、ゴーティエTh. Gauthier、ボードレールBaudelaireといった人たちです。ブレイクW. Blakeやヴィクトル・ユーゴーVictor Hugoのように、絵を描き文章も綴る芸術家が何人もいました。ドイツのフリードリッヒC. D. Friedrich の風景画は見る人の心を強く揺さぶります。イギリスはローレンスT.Lawrenceの肖像画、コンスタブルJ.ConstableやターナーJ.M. Turnerの風景画で名声を博しました。特にターナーにみられる色彩の追及は、その死後、印象派の画家たちに影響を及ぼすことになります。 フランスにおけるロマン派絵画は非常に多彩な表現形態を身にまとっています。ジェリコーT.GericaultとドラクロワE. Delacroixは色と主題で表現し、オラース・ヴェルネHorace Vernetは風景画を好みました。サロン(官展)とその批評は大きな意味を持つものでした。1819年、ジェリコーは『メデュース号の筏(いかだ)』で物議を醸します。1822年にはドラクロワが『地獄のダンテとヴェルギリウス(ダンテの小船)』で注目を集めました。1824年のサロンには、ドラクロワ、アングルIngres、コンスタブル、ボニントンBonington、ローレンスLawrenceの作品が並べられることになります。オリエンタリスムの画家(ドゥカンG.Decamps)やロマン主義的風景画家(コローC.Corot、ユエP. Huet)もロマン主義芸術の担い手に挙げられます。

象徴主義とラファエル前派 19世紀末

象徴主義の芸術運動は、1886年、詩人ジャン・モレアスJean Moreasが書いた「象徴詩が追求するのは、理念に感覚的な形態をまとわせることであり・#12301;という文章にその定義を見出すことができます。 19世紀後半は、戦争の楔と芸術を束縛する厳格主義から自らを解き放つような、芸術的熱情や理念がまさに爆発した時代でした。1820~1860年のあいだに誕生した2世代にわたる芸術家たちは、印象派とは逆に、文学においても絵画においても、理念をシンボルとして表現しようとしました。採用されたテーマの大半が、歴史、聖書、神話、伝説に材を得たものです。

これは、ラファエル前派や将来のアール・ヌーヴォーの取り組みともなります。ラファエル前派とそのインスピレーションとは、ジョン・ラスキンJohn Ruskinやフォード・マドックス・ブラウンFord Madox Brownを擁したイギリスから生まれました。彼らのその最初の絵を見たイギリス人たちは、「ショッキング!」という言葉を口にします。

その最も有名な芸術家たちが、ウイリアム・ホルマン・ハントWilliam Holman Hunt、ジョン・エヴァレット・ミレイJohn Everett Millais、ダンテ・ゲィブリエル・ロセッティDante Gabriel Rossetti、エドワード・バーン・ジョーンズEdward Burne-Jones、さらには詩人でデザイナーであったウィリアム・モリスWilliam Morrisです。大陸では、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌPuvis de Chavannesの作品をパリのパンテノンPantheonで、ギュスターヴ・モローGustave Moreauの作品を彼のアトリエ(パリ9区)で観ることができます。また、ベルギー人のフェリシアン・ロップスFelicien Rops、スイス人のアルノルト・ベックリンArnold Bocklinやフェルディナンド・ホドラーFerdinand Hodlerが象徴主義の影響を継承することになります。

写実主義と理想は、創造性や精緻を追及する画家や作家たちのお気に入りのテーマでした。そしてこの精緻は、しばしば表現主義の前兆となるのです。

アール・ヌーヴォー1890-1905年

アール・ヌーヴォー、モダーン・スタイル、ユーゲントシュティール。これらはみな、19世紀末にアメリカやヨーロッパにかけて流行した、一つの新しい芸術運動を表わした言葉です。唐突に出現しながらも短期間で終焉をみたこの国際的な芸術の潮流は、さらに明確に定義するならば、1890~1905年までの15年間に限られます。 アール・ヌーヴォーの流れは、インダストリアルアートと手工芸品が洗練されたことに同調していました。北斎に代表される日本芸術とヴィオレ・ル・デュックViollet-le-Ducによるゴシック再評価の影響は、装飾芸術の発展に典型的な、流れるようなライン、アラベスク文様、自然界のフォルムの模倣をもたらしました。そしてまたたく間に、ヨーロッパ全土の画家、建築家、作家がアール・ヌーヴォーに関心を寄せることになります。 ドイツのビングS. Bing は、アメリカのガラス職人ティファニーL.C.Tiffanyをヨーロッパに紹介しました。フランスでは、ナンシー派がガラス職人ガレE. Galleによって、世間にその名を知られるようになりました。ガレは、動植物を題材に、フォルムや色合いを様々なニュアンスで変化させたガラスペーストによる作品を制作しました。ドーム兄弟freres Daumはそのガレの継承者です。マジョレルL. Majorelle は、イバラや葉形装飾が絡まり合うユニークな調度品を制作しました。パリでは、建築家のギマールH. Guimardが、1899年に地下鉄の入り口のデザインの制作を請け負いました。ミュンシャA.M. Muchaは、フランス演劇界きっての大スター、サラ・ベルナールSarah Bernhardtのために美しいポスターを作りました。そして、オーストリアの画家クリムトG. Klimtや、1887年に着工したバルセロナのサグラダファミリア教会で知られるスペイン・カタロニアの建築家ガウディA. Gaudiは、アール・ヌーヴォーの超克に貢献しました。 

フォーヴィスム、表現主義、キュビスム 1905-1914年

20世紀の芸術は、1905年から第一次世界大戦前の1914年までに行われた多くの実験芸術の試みによって幕を開け、それらの模索に対しては、それぞれに固有な独特の名称がつけられています。

1905年のサロン(官展)に、フォーヴィスム(野獣主義)の絵画が初めて登場したときの衝撃は大きなものでした。正確さを度外視して用いられた荒々しい原色の色彩。その中に、マティスH. Matisse、ルオーG. Rouault、マルケA. Marquet、ドランA. Derain、ド・ヴラマンクde Vlaminckがいました。自身の作品に対してそれぞれ個人的なヴィジョンを携えたこの画家たちのグループに、デュフィR. Dufy、ブラックG. Braque、フリエスO. Frieszが加わることになります。短命に終わったこのフォーヴィスムの周辺にいたのがルソーH. Rousseauです。彼は長く税関に務めていたため、「ル・ドゥアニエ(税関吏)」と呼ばれていました。彼が好んだナイーヴアートは、のちにピカソP. Picassoの賞賛の的となりました。

ライン川の向こう、ドイツでは1905年、メンバー同士を結ぶ「架け橋」の意味を込めてつけられた「ブリュッケDie Brucke(橋)」という名のグループが結成されました。叙情性を強く感じさせるノルデE. Nolde、そしてキルヒナーE. Kirchnerによって、これが表現主義の第一歩となりました。表現主義は1911年に、オーストリアのココシュカO. Kokoshckaの絵画で明確にその姿を現すことになります。

それと併行して1907年には、ブラックG. Braqueの作品とともにキュビスムの誕生に位置づけられる、パブロ・ピカソPablo Picassoの作品が発表されます。その後すぐに、ドローネG. Delaunay、レジェF. Leger、グリJ. Grisが、この視覚的現実を逸脱するキュビスムの運動に加わりました。そしてこれも1914年に始まる第一次世界大戦の前のことですが、1911年にミュンヘンで、「ブラウエ・ライター(青騎士)」派が形成されました。その中には、カンディンスキーW. KandinskyやクレーP. Kleeらがいました。イタリアの未来派やロシアの光線主義が彼らのあとに続くことになります。ヴァラドンS. Valadon、ユトリロM. Utrillo、シャガールM. Chagall、モディリアーニA. Modigliani、スーティーヌC. Soutineがパリで独立美術家協会(アンデパンダン)に加わる一方で、第一次大戦の前夜には、クプカF. Kupka、ピカビアPicabia、モンドリアンMondrianによって、抽象絵画の第一歩が記されました。

近代建築

近代建築(1900~1945)の最初の動きはヨーロッパで生まれました。工場、集合住宅、田園都市が研究の対象となり、フランスとイタリアで鉄筋コンクリートの新しいフォルムが追求されました。 1919年、ワイマールにグロピウスW. Gropiusによって造形学校「バウハウスBauhaus」が創設され、ドイツに新しい運動が興りました。その協力者の中には、画家のクレーP. Klee、カンディンスキーW. Kandinsky、ファイニンガーL. Feiningerの名がありました。空間の大きな広がりと白い壁は、新しい住宅の典型的な要素となったのです。アムステルダム派やロシア派も、同じ流行を追い求めながら変化を遂げてゆきます。 卓越した建築家、シャルル・エドゥアール・ジャンヌレ、別名ル・コルビュジエLe Corbusierがパリの建築シーンにその姿を現したのは1908年のことでした。コルビュジェによる家々は、彼が提唱した「建築的プロムナード」として設計されています(生れ故郷のジュラ地方に建てた「シュオブSchwob邸」、パリのドミノ式住宅、1929年のポワッシーPoissyの「サヴォワSavoye邸」など)。1925年の装飾芸術博覧会では「アール・デコ」様式が初めて登場します。1930年、マレ・ステヴァンR. Mallet Stevensとも親しかったコルビュジエは、有名なプロジェクト「輝ける都市」を提案します。低所得者向けの社会住宅が建築の主流テーマとなりました。フランスでは、アンリ・セリエHenri-Sellierの指揮のもと、田園都市(シテ・ジャルダン)が郊外で興隆を極めました。1937年の万国博覧会は、パリのシャイヨ宮Palais de Chaillotによってエポックメーキング的な存在となりました。 アメリカ人に継承されたヨーロッパのモダンアートは、やがてドイツのナチズムによって排斥されることになります。1943年には「アテネ憲章」によって、「居住、労働、往来、余暇」という、理想の都市モデルが有する4つの機能が強化されます。ロンシャン礼拝堂Chapelle de Ronchamp(1950年)とラ・トゥーレット修道院Couvent de la Tourette(1956年)は、ル・コルビュジエの最後の神秘的なメッセージを私たちに伝えてくれます。

 

ダダイスムとシュルレアリスム1916-1945年

マルセル・デュシャンMarcel Duchampがダダイスムによる初めての奇妙な作品を制作したのは第一次世界大戦中のことでした。それらは、スツール上に取りつけた自転車の車輪や1917年にニューヨークに送られたあの男子用小便器といった、いわゆる「レディ・メイド」の作品でした。ダダの運動は、1916年、チューリッヒで形成されました。「ダダ」という名称は辞書から偶然に選んだものであり、詩人のT・ツァラとスイス人画家のアルプH. Arpが手を組んで活動しています。デュシャンやピカビアPicabia、ニューヨークの写真家マン・レイMan Rayが運動を展開し、ダダイスムはヨーロッパ全域で流行しました。特に盛んだったのがドイツで、ハウスマンR. HaussmannやハートフィールドJ. Heartfieldによってフォトモンタージュの作品が制作されました。戦争によって生まれたダダイスムは、世界の不条理を、それを積極的に認めることを通じて相対化しようと試みました。

1920年代には、ダダイスムを受けてシュルレアリスムの先駆けとなる作品がイタリアのデ・キリコG. De Chiricoによって生み出されました。彼の作品では、「形而上的な世界」の風景の真ん中に、奇妙な形で静物が配置されています。彼の友人のモランディG. Morandiは、独自の詩的世界を描き続けました。そのほか、ピカソPicasso、マティスMatisse、ブラックBraque、デュノワイエ・ド・スゴンザックDunoyer de Segonzac、デュフィDufy など多くの芸術家も活躍しました。夢の持つ大きな力を重視するシュルレアリスムは、1924年に詩人ブルトンA. Bretonを中心に、明確にその姿を現します。アルプ、マン・レイ、エルンストM. Ernst  は、ダダからシュルレアリスムへとごく自然に移行しました。マグリットR. Magritte、デルヴォーP. Delvaux、ダリS. Daliは多くの信奉者を生み出しました。

ダリはフランスでピカソに続き最も人気のある画家です。パリのモンマルトルにあるダリ美術館Espace Montmartre-Dali(18区)は、彼の彫刻やセリグラフィ作品を展示しています。様々な出版物や展覧会によって、ナチスの台頭にもかかわらず、マルセル・デュシャンが紹介され、シュルレアリスムの旺盛な活動が守られました。

大衆芸術 1945-1970年

大衆芸術(Art populaire)という概念がいつ誕生したかを厳密に規定することはできませんが、これは「大衆=peuple」という概念から生じたものであり、さらにこの「peuple」という言葉には、フランス革命を機に誕生した「国民」という概念も含まれています。こうして「フォルクロール(民俗、民俗伝承)」は「民族誌学」という学問になりました。
戦前の各世代の伝統が見直されることになります。衣装、家具、楽器、道具類、かご細工、機織、お面、鉄工芸品、指物細工、大衆向けの版画、陶器など、大衆芸術の形態は実に様々です。かつては価値のないものとして顧みられたかった品々が、以後、博物館やエコミュージアムで保存され、人々と郷土の歴史を語るようになりました。

「アウトサイダーの芸術」こと「アール・ブリュット=生(なま)の芸術」」にみられる創造性も、大衆芸術のアプローチと同様のアプローチにそのインスピレーションの源を見出すことができます。1945年、画家ジャン・デュビュッフェDubuffetは、素朴派の芸術や精神病患者のデッサンを調査しました。そして1948年にパリにおいて、作家のアンドレ・ブルトンAndre Bretonと批評家のジャン・ポーランJean Paulhanとともに「アール・ブリュット会社」を設立し、「文化的な芸術よりも生の芸術を」という宣言を発表しました。1967年にはパリの装飾芸術美術館 musee des Arts decoratifsを会場に、大規模なアール・ブリュットの展覧会が開かれます。
しかし、それに対する人々の認識は依然不十分なものでした。そのため、コレクションはスイスのローザンヌに場所を移すのですが、そこでクリエーターやメセナから熱い注目を集めるようになります。アトリエ・ジャコブAtelier Jacobではこうして、建築家ブルボネBourbonnaisが集めた「騒々しい」人形たちが一同に展示されることになります。これらの仲間には、ピカソP. Picassoが自転車のサドルとハンドルで制作した『雄牛』や、ティンゲリーJ.Tinguelyの作品たちと同様に、廃物を使って己の幻想を表現する労働者や職人、年金生活者の作品も含めることができるでしょう。つまり、大衆芸術からアール・ブリュットまで、その距離はごく僅かなものだったのです。


レアリスムとポップアート 1960-1980年

抽象芸術の興隆を前にして、写実の表現をめぐってもまた別の新しい動きが発展しました。1960年、レアリスムはアメリカ人ホッパーE. Hopperという先駆者のあとを受け、前衛的な芸術運動となるのです

ジョーンズJ. JohnsとラウシェンバーグR. Rauschenbergは、1961年、絵画の中で生の素材を扱い話題となります。物そのものが丸ごと絵の中に取り込まれてアセンブラージュを構成したのです。

コラージュは日常を、つまり「大衆=pop(ular)文化」をめぐる考察を表現しました。ハミルトンR. Hamilton、ブレイクP. Blake、ジョーンズA. Jonesにみられる、詩とユーモアをミックスしたイギリスにおけるポップ・アートの誕生です。ポップ・アートの潮流は、アメリカにおいても、有名な芸術家アンディ・ウォーホルAndy Warholを中心に発展します。マリリン・モンローやキャンベル・スープの缶詰をモチーフにしたセリグラフでは、メディア的、さらには漫画的なユーモアが活かされています。

ヌーヴォー・レアリスムの運動は、青のモノクロニスムを追求したクラインY. Kleinをリーダーに、イタリアで誕生しました。スペーリSpoerriはガラクタを、アンスR. Hainsは引き裂かれたポスターを使って作品を制作しました。フランスにおいては、これらのトレンドの全体が「ヌーヴェル・フィギュラシオン(新具象)」と呼ばれることになります。

1970年にはアメリカのレアリスムがハイパーレアリスム(スーパーリアリズム)へと転換します。精緻にこだわったこのレアリスムの媒体として、写真が多用されました。モーリーM. Morley、クロースC. Close、ゴーイングスR. Goingsといった画家たちは、もっぱらありふれた日常を題材に取り上げます。1974年にはパリで、アメリカのハイパーレアリストとヨーロッパのレアリストの作品を集めた展覧会が開かれました。その後、コンセプチュアル・アート(概念芸術)から現在のトランス・アヴァン・ギャルドに至るまで、多種多様な芸術運動が続々と出現しています。

現代建築 1946年-現代

第二次世界大戦後、現代建築はヨーロッパにおける復興工事とともに始まりました。鉄筋コンクリートや、ガラスと鋼鉄を使った新しい技術が、建築、政治、社会のそれぞれの動きを勘案した都市計画の屋台骨を支えることになります。

アメリカやイギリスでみられた幾何学的な建築物のあとに、建築家のニュージェネレーションは、住民の声に耳を傾けるようになります。近代建築を担った前世代の建築家たちとしばしば意見を異にしたイタリア、アメリカ、あるいはスペインの流派が都市建築に挑みます。20世紀の遺産は、現代的で工業的、技術的な現場を、いかに保存しその価値を高めるべきかを常に自問していました。そしてニュータウンが続々と誕生しました。その先鞭をつけた建築家たちには、プイヨンF. Pouillon(マルセイユ旧港のファサード)、アンドローM. Andrault&パラP. Parat(ベルシーBercyのオムニ・スポーツセンターPOB)、エローE. Aillaud(パンタンPantin、グリニーGrignyの集合住宅)、ピアノR. Piano(ポンピドゥーPompidouセンター)、ボフィルR. Bofill(マルヌ・ラ・ヴァレMarne-la-Valleeにある集合住宅「アブラクサスの宮殿Palais d'Abraxas」)、ボッタM. Botta(エヴリー大聖堂Cathedrale d'Evry)らの名前が挙げられます。

戦後はパリそのものも、巨大な工事現場と化しました。鋼鉄とガラスだけでできた200mの高さを誇る モンパルナスタワーtour Montparnasse(1969~73年)からは素晴らしい眺望が楽しめますし、ジョルジュ・ポンピドゥーセンターCentre Georges Pompidou(ピアノR. Piano&ロジェR. Rogers、1971~77年)はハイテク建築のモデルを示しました。さらに最近の建造物としては、ラ・ヴィレット科学産業都市La VilletteのジェオードGeode(ファンシルベールA. Fainsilber、1986年)、アラブ世界研究所Institut du Monde Arabe(ヌーヴェルJ. Nouvel、1987年)、大蔵省Ministere des Finances(シュメトフP. Chemetov&ウイドブロB. Huidobro、1984~89年)、 ルーヴル美術館エントランスのガラスのピラミッド(ペイI.M. Pei、1983~89年)、パリの歴史的中心軸に置かれた、デファンス地区の新凱旋門la Grande Arche de la Defense(スプレッケルセンJ.O. von Spreckelsen、1985~89年)などがあります。